透析を受けながら活躍する人々

掲載:2021年 vol.40

関矢 武明さん

嚢胞感染は原因が不明のため、衛生管理を徹底しているという関矢さん。
また普段リンの値が高めでかゆみも気になるため、栄養面にも注意している。
「今は4時間半の透析ですが、もう少し長時間の透析ができればうれしいですね」。

くも膜下出血から多発性嚢胞腎が判明し、透析を導入。
私の経験を語ることが、誰かを支えられたらうれしい。

専門商社勤務
多発性嚢胞腎財団日本支部 事務局

関矢 武明さん

1967年、新潟県長岡市生まれ。地元の高校を卒業後、神奈川県の大学の体育学部へ進学。卒業後はアスレチックトレーナーを目指し、アメリカ・ロサンゼルスへ留学。しかし1年後、アップル社などIT産業の興隆を間近に見て世界が変わると感じ、帰国して東京の企業でシステム管理に携わる。その後、実家がある長岡市に帰郷し、現在の専門商社に就職。1999年、多発性嚢胞腎によりくも膜下出血を発症。手術後、半年間リハビリを行う。復職して保存期治療を受けていたが、2005年に嚢胞感染のため血液透析を導入。現在は、仕事や趣味の時間を大切にしながら、自身の経験や知識を伝え、同じ多発性嚢胞腎の治療を受ける患者さんを支える活動も行っている。

突然のくも膜下出血から多発性嚢胞腎が判明。

 私が透析を導入した原疾患の多発性嚢胞腎が判明したのは、1999年のくも膜下出血でした。会社で帰り支度をしていると、いきなり後ろから殴られたような頭痛がしました。しばらくして痛みが少し落ち着いたので車で病院へ向かいましたが、車内ではずっと嘔吐していました。一旦帰宅して、翌日改めて入院。左半身が動かなかったことから、最初は脳梗塞が疑われました。しかしその後1週間の検査の中で、「多発性嚢胞腎によるくも膜下出血」と診断されたのです。

 まずは緊急性の高いくも膜下出血の治療を優先して、クリッピング手術を受けました。手術は成功しましたが、左半身の麻痺は続いていたのでリハビリを開始。ストレッチや筋トレ、歩行訓練もしました。はじめは歩くスピードも遅く、横断歩道を信号が変わるまでに渡りきることが難しく、渡れるようになった時は、学生時代のバレーボールの全日本インカレで優勝した時よりもうれしかったですね。

関矢 武明さん

関矢さんの長年の趣味は競馬。20年以上のデータを駆使して勝敗を予測する。現在は人と集まることが難しいものの、祝勝会でのお酒も楽しみの一つ。

 多発性嚢胞腎というのは、腎臓に嚢胞ができて大きくなり、さまざまな臓器に障害が起きやすくなる遺伝性の病気です。高血圧や脳動脈瘤になる可能性が高く、くも膜下出血になる確率が高いです。遺伝性の病気ですが、私の場合は、私が家族で初めてです。そのため予測や予防もできず、診断が付いた時は寝耳に水で、とても驚きました。

 保存期の生活は、血圧の管理をはじめ、たんぱく質や塩分などの栄養管理も行いました。私は大学でスポーツ栄養学を学んでいたので、その点はあまり苦労せずに取り組めました。大変だったのは、水分摂取です。透析をしている今では考えられませんが、当時は毎日2リットル以上の水を飲むようにすすめられていて、少しずつ分けて飲むように習慣づけました。一方、コーヒーは病気が進行しないように制限していました。私はコーヒーが大好きなので、我慢するのがつらかったですね。

嚢胞感染の高熱から血液透析へ。
自分に合った栄養管理と長年の趣味で充実した日々。

 保存期の治療は、くも膜下出血の手術の半年後から本格的に始めました。職場復帰し保存期の生活にもやっと慣れた2005年、突然40℃の高熱が出ました。嚢胞感染によるものでした。発熱が5日間も続き、腎臓の機能が急激に低下して、医師から透析導入の話がありました。血液透析、PDラスト(終末期の腹膜透析療法)を含めた腹膜透析、腎移植の説明も受けた上で、血液透析を選択しました。シャントをつくり、5日後から透析を導入。現在は週に3日、4時間半の透析をしています。

 透析を始めると、保存期の時と栄養管理の内容が変わりました。たんぱく質を少し多めに摂れるようになり、コーヒーも飲めるようになりました。ただし水分は保存期よりも大幅な制限が必要で、体が慣れるのに苦労しました。今は新型コロナウイルス感染症の流行で生活が一変し、体重が増えぎみなので、栄養学の知識を活かし自分に合った食事で調整しています。透析治療は長期にわたって取り組むので、個人的には、食事制限は厳しすぎると精神的にも続かないと思っています。お酒も嫌いではないので、ほどほどに飲んで気持ちをリフレッシュしています。

 私はくも膜下出血から多発性嚢胞腎が判明するという大変珍しいケースで、くも膜下出血と透析治療もしている人は国内では極々少数と聞いています。自分がこの病を患った時は、情報が少なく苦労しました。現在、多発性嚢胞腎財団日本支部の活動も行っていますが、私が自身の経験を発信することで、もし誰かが今後同じような状況になった時に少しでも参考や支えになればと願い、これからも仕事と活動を続けていきたいです。