透析を受けながら活躍する人々

掲載:2022年 9月

末綱 広輝さん

これまで人に恵まれてきたという末綱さんは、「家族や先生、医療スタッフのみなさんをはじめ、親戚、友人、職場や患者会・スポーツ大会に関わる方々など、多くの方に支えていただき、心から感謝しています」と話します。そして大切にしている言葉は『当たり前のことこそ恵み』。これは、移植医療の講演会で知り合った、事故で娘さんを亡くされた際、臓器提供を決断されたお母さんの言葉です。「日常を大切にする教訓にしています」と末綱さん。

一年間の血液透析を経て、25歳で腎移植の手術。
患者会活動や世界的なスポーツ大会を通して、積極的に啓発活動をしています。

日本移植者スポーツ協会 理事
山口県腎友会移植部会 会長(青年部長兼務)
日本移植者協議会 幹事
やまぐち移植医療推進財団 理事

末綱 広輝 さん

1974年、広島県出身。高校生の時、献血時の血液検査で腎機能に異常があると指摘される。大学2年生の時に慢性腎不全と診断され、保存期の治療を開始。大学卒業後は、社会福祉士を目指すため専門学校で学ぶ。1997年に腎代替療法が必要となり、一年間血液透析を導入。その後、お母様から腎臓を譲り受け、腎移植手術を受ける。退院後は、山口県の防府市役所に入職し、同時に腎友会や日本移植者協議会での活動を始める。また、腎移植手術前から移植者のスポーツ大会に興味を持ち、移植後トレーニングを開始。「全国移植者スポーツ大会」を皮切りに、「世界移植者スポーツ大会」にはこれまで3回出場。2011年のスウェーデン大会では走幅跳(30代の部)で銅メダルに輝くなど、精力的な活動を通して臓器移植の啓発活動を行っている。

大変辛かった保存期治療。
同じ経験や悩みを持つみなさんと
より良く生きられる取り組みをしたい。

 高校生の時、献血時の血液検査で腎機能に異常があると指摘されました。当時はそのまま様子を見ることになったのですが、大学2年生の時、胃の調子が悪くて病院を受診した際に、エコー検査で腎臓が萎縮していることがわかりました。広島赤十字・原爆病院でさらに腎生検などの精密検査を受けたところ、慢性腎不全と診断されました。すぐに保存期の治療が始まり、塩分やたんぱく質を中心とした食事制限にも取り組みました。しかし、若くて食欲がある年齢なのに食べられないこと、そして大学の友人と食事に行くことも制限されてしまうなど、辛い気持ちになることが多くなりました。半年ほどで精神的に追い込まれ、ある時パニックを起こして、治療を放棄してしまったのです。その後も通院は続けていましたが、食事は診断前と同じ状態に戻りました。

末綱 広輝さん

腎移植の前に、世界移植者スポーツ大会の存在を知り、手術に対して前向きになったという末綱さん。しかし、2001年に神戸で開催された世界大会は国内でも話題にならず、落ち込んだこともあったと言います。「2010年に改正臓器移植法が全面施行され、臓器移植について注目されることが増えました。この機会に移植者としてできることは何か考え、再度世界大会に挑戦しようと決めました。そしてこの時一緒に練習した障害者陸上チームの選手たちから、“勝つこと”が大事なのではなく、“純粋な気持ちでがむしゃらに挑むことで、思いは伝わる”と学びました」。

 大学卒業後、私は大分県にある専門学校の社会福祉士養成コースに進学しました。将来的に手に職を付けておきたいと考えて選んだ道でした。しかし23歳の夏、腎臓がほとんどの機能を失い、腎代替療法を始めることになりました。広島日赤の主治医から示されたのは、「血液透析・腹膜透析・腎移植」の3つの療法でした。これは後でわかったことですが、当時、患者さんが治療選択に関われるケースは少なかったようです。しかし、主治医は3つの療法について詳しく丁寧に説明してくださいました。その時、私個人としては、腎移植はドナーが必要で現実的には難しいと考え、血液透析の一択だったのですが、両親がこの時を見越して腎移植について調べてくれていたのです。親戚に医療関係者が多かったこともあり、アドバイスをもらい、腎臓を提供すると言ってくれました。驚きとともに心からありがたく、深く感謝しました。

 主治医と相談し、1年間は血液透析を行い、その後腎移植の手術をすることになりました。すぐに移植しなかった理由は、保存期の間に悪化していた体調を改善して体力を戻すことと、もしすぐに腎移植を行っても拒絶反応などの理由で透析へ移行した場合に、私の精神的負担が大きいだろうと配慮してくださっての判断でした。血液透析を行っていた一年の間に両親が検査を受けてくれて、より適合しやすいと思われる母の腎臓を移植してもらうことになり、岡山大学病院で手術を受けました。ずっと「移植してもうまくいかない可能性がある」という不安や、「健康な母の体にメスを入れるのは申し訳ない」という葛藤もありましたが、家族や先生(医師)、医療スタッフのみなさんの手厚いサポートのおかげで無事に乗り越えることができました。

 また、私を前向きな気持ちにさせ、支えてくれたものの一つにスポーツもあります。移植手術前、「世界移植者スポーツ大会」のことを知りました。これは世界中から移植を経験した人が集まる「移植者のオリンピック」と言われる大会で、2年に一度行われていました。私はスポーツが好きだったことや、臓器移植について多くの人に知ってほしいという思いもあり、退院後にこの大会に出場することを目標に手術や治療、リハビリに励んできました。退院後、1999年には全国移植者スポーツ大会に出場。2000年に防府市役所に入職して念願の社会復帰を果たした後は、勤務のかたわらトレーニングを行い、世界移植者スポーツ大会に3度出場してきました。2011年のスウェーデン大会では、走幅跳(30代の部)で銅メダルを獲得。100メートル走(同じく30代の部)でも4位に入賞しました。

 現在、山口県腎友会や日本移植者協議会などの活動も積極的に行っています。透析や移植を経験した者として何ができるか、自分だけでなく同じ経験や悩みを持つみなさんと一緒により良く生きていけるような取り組みをしていきたいと考えています。とにかく何があっても諦めずに、前向きに歩んでいきましょう。そうすれば、気持ちも晴れやかに日々を大切に過ごしていけると信じています。