透析を受けながら活躍する人々
掲載:2018年 vol.32

いつも演奏で弾いているお気に入りのギターを抱えて。「毎日1〜2時間、ギターと歌の練習をして、土日はだいたいライブに出演するために出かけています。私の生きがいの一つですね」。
透析をしていて「不便」なことはあっても、決して「不幸」ではありません。
会社員・ミュージシャン
山口栄治 さん
1961年、静岡県富士市出身。高校卒業後、東京の大学へ進学し、就職。地元静岡へ戻り、現在の会社に就職。その後、東京・静岡間で転勤を重ねる。30歳の時に血尿が出て、腎機能低下により透析保存期のケアを始める。39歳でシャントの手術を行い、翌年血液透析を導入。仕事を続ける傍ら、2つのバンド活動にも力を注ぎ、オリジナルのCDもリリース。生来のポジティブシンキングで、さまざまなことに興味を持ち、積極的に取り組んでいる。
幸せを感じるハードルが下がり、
多くのことにより感謝できるように。
透析を導入して、今年で17年になります。地元の高校を卒業後、東京の大学に進学し、そのまま東京で就職しました。しばらくして両親の希望で静岡へ帰り、電気機器メーカーのグループ商社へ就職したのですが、すぐに東京へ転勤が決まり、その後も静岡・東京の間で何度か転勤を繰り返しました。職場で出会った妻と結婚してすぐの30歳の頃、血尿が出ました。背中に激痛が走り、当時東京にいた私は横浜の大学病院で診察を受けたところ、腎機能が低下していると診断されました。普段、自覚症状などはなかったのですが、確か小学2年生の時に嚢胞腎で入院したことがありました。父も腎臓が弱かったことから、遺伝的な原因があったのかもしれません。
医師から透析のお話はありましたが、導入までの期間をできるだけ延ばすため、保存期のケアが始まりました。特に食事は妻が気遣ってくれ、毎日栄養や成分を考えて作ってくれました。一方で、月に一度は「解禁日」として外食に出かけていました。お互いの気分転換にもなり、良かったと思います。

ずっと新婚のように仲の良い、奥様しのぶさんと。「主人は本当に物知り。音楽や本、スポーツなど、いろんなことを教えてくれます。主人の影響で始めたことも多いんですよ」としのぶさん。
そうした中でも、少しずつ腎臓の働きが弱くなっていきました。39歳の時にシャントの手術をし、40歳で血液透析を始めることになりました。この時、あまり大きな気持ちの揺れはありませんでした。思えば、保存期の頃から少しずつ覚悟していたのかもしれません。妻の方が、将来への不安を強く感じていたと思います。
週に3日、3時間半または4時間の透析が始まり、生活は大きく変わりました。でも、勤めている会社は理解してくださり、現在は地元・静岡に落ち着いて、仕事を続けることができています。また妻は、朝が早い私のために一緒に早起きし、お弁当を作ってくれるなど支えてくれています。本当に感謝しています。
透析中は、忙しい時期は少しうとうと眠ることもありますが、スマートフォンに小説や音楽をダウンロードして楽しんでいます。もともといろんなことに興味があるので、調べものなどもします。透析自体は私にとって欠かせない、大切なものですが、毎回長時間ですよね。「時間がもったいないから、できるだけ有効に使いたい」と思い、透析中の時間も大切に使っています。
今、プライベートで特に力を入れているのは音楽活動です。学生時代にもやっていたのですが、社会人になって17年ほど活動していなかったんです。でもその間もギターや歌は続けていたんですよ。今はオリジナル曲を演奏するバンドと、60〜70年代のアコースティックの曲を演奏するバンドの2つに参加しています。土日はほぼこの活動で、主にレストランやライブ会場に出かけています。忙しいけど楽しいですね(笑)。私には目標があって、1つは「60歳になった時に最高のミュージシャンであること」。そしてもう1つは「大きなホールでコンサートを開催すること」。三島市民文化会館に、400人ほど入れるホールがあるのですが、それぐらいの大きな会場で演奏してみたいですね。
透析をしていることで、不便だなと感じることはありますが、決して不幸ではありません。もともとポジティブな考え方ですが、今の状況を決して悲観していないんです。なぜなら透析があるおかげで、こうして生きていられるんですから。幸せを感じるハードルが低くなり、日々多くのことに感謝できるようになりました。そのことを、とても良かったと思っています。