透析を受けながら活躍する人々
掲載:2018年 vol.34

「家族や親せき、友人、職場の人、多くの人に支えられています」と話す阿部さん。
「だから私も、がんばっている人を少しでも応援したいです」。
「できないイコール = 障害」ではありません。
少しずつ努力して、できるようになれば良いんです。
北海道腎臓病患者連絡協議会 道北地区代表幹事
士別腎友会 事務局
社会福祉法人しべつ福祉会 ワークセンターきずな 勤務
阿部 純一 さん
1969年、北海道士別市生まれ。8歳の時に腹膜灌流を導入し、その後血液透析へ移行する。24歳で地元の郵便局に勤務。民営化をきっかけに退局し、しべつ福祉会に勤務。食堂の開設にあたり、メニューづくりなどから取り組む。10年ほど前、合併症による心筋梗塞で部署を異動。現在はぬいぐるみの企画・制作・販売などを行なっている。趣味が多彩で交友が広く、前職場の上司・同僚や友人と出かけることも多い。
家族や周囲の人たちの温かいサポートが
あったからこそ乗り越えて来られました。
透析を導入したのは、8歳の時です。自覚はなかったのですが、後で母が言うには、その少し前から下校したら家でよく横になっていたそうです。小学校でマラソン大会があった日、朝までなんともなかったのですが急にフラフラして、とても走るどころではありませんでした。近くの診療所へ行くと、医師に「すぐに大きな病院へ行きなさい」とすすめられるほど、顔色も悪い状態でした。詳しい原因は今もわかりませんが、もともと腎臓が強くなかったのでしょう。旭川の大きな病院に入院し、1ヶ月検査をしました。その間母をはじめ父や姉も付き添ってくれました。それがどれだけ心強かったか分かりません。
最初に導入したのは腹膜灌流でしたが、当時の治療は今ほど良いものではありませんでした。子どもの体には透析液が多すぎてお腹は苦しいし、穿刺を繰り返すのもつらかったです。体調が落ち着くと、血液透析のための外シャントの手術をしました。とにかく毎日、体の痛みしかありませんでした。そんな私の様子を見かねた母が、4階の病室から「一緒に飛び降りようか」と言ったそうです。私はまったく記憶にないのですが、「いやだよ」と断ったそうです。つらい痛みがこの先ずっと続くという切実さは、子どもの私よりも母の方が強く感じていたはずで、追い詰められて思わず出た言葉なのだと思います。でも、基本的に家族はみんな明るい性格なので、私も悲観的にならず、友達にも支えられて過ごすことができました。

17歳の頃に病状が落ち着き、当時友達が乗っていたバイクに憧れて免許を取ったという阿部さん。「思春期は特に、透析というより病気自体がつらかった。それでも、本当にやりたいことに挑戦して良かったと思います」。
学校を卒業してから、24歳で郵便局に勤めて郵便配達員の仕事に就きました。民営化を機に退職し、そのすぐ後にご縁があって、しべつ福祉会という福祉団体に就職。ここはさまざまな活動を行っていて、食堂を開くタイミングで「住み込みで手伝ってくれる人材を探している」と声をかけてもらいました。メニュー作りや食器選びから携わって、やりがいもあってとても楽しく、充実感がありました。しかし10年くらい前、合併症の心筋梗塞でバイパス手術をしてから、食堂の仕事がつらくなってきました。辞めようと思って上司に相談すると、「自分ができることをやればいいんだよ」と他の部署をすすめられました。今は、地元の士別で多く飼われているサフォーク種の羊のぬいぐるみを作っています。季節や歳時などに合わせて、それぞれの衣装を着せたり小物を持たせたりするのですが、それもオリジナルで考えています。物作りは大好きなので、今の仕事内容も楽しいですね。
障害者というと、「人ができることができない」と思われがちですが、「できない=障害」ではありません。身体的なハンディキャップがない人にだって、できないことはあると思うんです。できないことは得意な人に任せるとか、自分でやろうと思うなら一歩ずつがんばれば良いんですよ。
趣味と言っていいと思いますが、私は近年「女子会」に参加しています。私自身は男性ですが、姉が3人いたので女性とも話しやすく、またいろいろと相談をされることが多いんです。今では3つの女子会の主催をしていて、月に1回は開催しているんじゃないかな。こうして、いろんな人とつながっているのも、心の健康のために良いと思っています。