透析を受けながら活躍する人々
掲載:2019年 vol.36

森さんが野菜を育てている畑で。季節ごとに様々な種類の野菜を、無農薬で育てている。
食事や運動は毎日のこと。
自己管理の習慣を大切にして、長く元気でがんばりたいです。
特定非営利活動法人 兵庫県腎友会 相談役
兵庫腎疾患対策協会 幹事
森 利孝 さん
1942年、長崎県長崎市生まれ。高校卒業と同時に神戸の企業に就職。25歳で結婚。40歳の時にインフルエンザを患い、その後の検査で尿たんぱくの数値を指摘される。1995年の阪神・淡路大震災でボランティア活動を行っている時に体調を崩し、再度検査をしたところクレアチニンの値が高く、血液透析を導入。会社を定年まで勤め、退社後は兵庫県腎友会の活動にも尽力。会長を8年間務め、現在は相談役に就任。兵庫腎疾患対策協会の幹事でもある。近年は畑仕事も楽しみで、規則正しい生活と自己管理を心がけて毎日を送っている。
阪神・淡路大震災の年に、体調を崩し透析を導入。
当時は透析に関する情報がとても少なかったですね。
私が透析を始めたのは、53歳の時でした。長崎県で生まれ、高校を卒業してからは神戸の企業へ就職。25歳で結婚し、二人の息子にも恵まれました。体調を崩したのは、40歳でかかったインフルエンザがきっかけだったと思います。通常は数日で落ち着くはずの熱がなかなか下がらず、10日間ほど我慢しました。当時は少しぐらい体調が悪くても、無理を押して働くという風潮がありましたから、がんばりすぎて体に負担をかけたんですね。
同じ年に病院で尿検査を受けると、尿たんぱくが高いと指摘されて驚きました。医師からは透析の話も聞きましたが、当時は情報が少なかったこともあり、その後もあまり対策などはせずに過ごしていました。

講演などがない場合、透析がある日とない日でほぼスケジュールが決まっているという森さん。透析の日は、5年前に痛めたという首の治療の後、温泉・サウナに通うのも楽しみ。
保存期は13年間でした。1995年に阪神・淡路大震災が起こりました。私はこの頃には神戸市外に住んでいて、ボランティアで市内へ物資を運ぶ活動をしました。慣れない環境で体に疲労がたまり、精神的にもストレスを感じていたのでしょう。急に体調が悪くなり、階段をのぼれなくなってしまいました。急いで病院へ行くと、医師から「透析を始めましょうか」と言われ、すぐにシャントを作ってもらいました。以前の検査の時から覚悟していたので、いよいよ始めることになってもショックは感じませんでしたね。でも、透析について何も知らなかったので病院で相談したら、透析室へ案内してくれ、その時のベッドが並んだ光景や病室のにおいは強く印象に残っています。私自身の透析は週3回4.5時間で、これは長らく変えていません。病院では「もう少し透析時間を長くしますか」と言ってくれるのですが、長時間だと疲れてしまうんですね。透析後は血圧が低くなりすぎて意識がなくなったことが何度かあり、それからはドライウェイトにも注意しています。
毎日の食事管理は、自然とできているという感じです。もともと嗜好の偏りもなく、「栄養不足にならないようにしっかり食べて、リンやカリウムは薬でコントロールする」という考え方なんです。ただし血液の数値は毎週きちんとチェックして、例えばリンが少し多めの時は理由を見つけて次に活かすようにしています。運動は特別なことはしていませんが、自宅から少し離れた畑で野菜を作っているので、この畑仕事が運動代わりになっていると思います。作った野菜は子どもや孫、甥や姪、友達に送ります。農薬は一切使わずに育てているので安心だし、孫が「おじいちゃんが作った野菜はおいしい」と喜んでくれるのがうれしくて、気持ちにも張りがでます。食事管理や運動は毎日のことなので、続けていくのはなかなか難しいですが、習慣にして長く元気でいたいですね。
今後の夢は、キャンピングカーで日本一周をすることと、クルーズ船で国内外の海へ旅に出かけること。私は兵庫県腎友会の会長を8年務めたこともあり、現在相談役になってからも県内で講演する機会があります。これまでもいろんなところへ出かけていきましたが、やはり旅を楽しみたいなという気持ちはありますね。透析をしながら旅行する方法を調べてみたいと思います。おかげさまで今まで合併症もなく元気で毎日を過ごしているので、これからも無理をせずゆっくりと、みんなに喜んでもらえる仕事ができればと思っています。