透析を受けながら活躍する人々
掲載:2020年 vol.38

入鹿さんが勤める玉置神社の境内で。「ご縁をいただいて勤め始めて約1年半。夢だった御朱印を書けるようにもなって、うれしいです」と入鹿さん。
腎友会で、患者さんのためになる 楽しい催しを企画。
透析について学び、互いがより 良くつながる機会・場所を作りたいです。
特定非営利活動法人 奈良県腎友会
理事・女性部部長
入鹿 恵里子 さん
1965年、奈良県吉野郡十津川村生まれ。大学時代は体育学部で学び、ハンドボールにも取り組むなど“健康優良児”と言われたが、26歳の時に受けた健康診断で糸球体腎炎と診断される。結婚・出産を経て、32歳で腹膜透析を導入。5年半後、血管の石灰化などにより血液透析へ移行。すぐに在宅透析の勉強を始め、約10年間自宅で透析を行う。現在は通院している。奈良県の由緒ある玉置神社で働き、奈良県腎友会でも精力的に活動。透析について学び、患者さん同士がつながる機会や場所づくりを進めている。
結婚後、諦めずに妊娠・出産を選択。
今は孫の顔も見られて、本当にうれしいです。
私が透析を導入したのは、32歳でした。小さい頃から体を動かすのが大好きで、大学は体育学部に進学し、ハンドボールにも熱中するようないわゆる“健康優良児”でした。社会人になり26歳の時に転職しようと健康診断を受けた時、腎臓が弱っていて、将来的に透析を導入することになるだろうと医師に言われました。原因は今もよくわかりません。当時、原因不明の慢性腎不全の原因は糸球体腎炎と診断されることも多く、私も同じでした。透析のことを聞いても、正直に言ってその時はピンときませんでした。透析そのものをよく知らなかったし、透析導入後の生活などはもちろん想像もできませんでした。それでも栄養指導を受けて食事療法を続け、6年間の保存期を過ごしました。

今後の目標について「私は子どもが好きで、以前は小学校で教師をしていました。十津川は自然に恵まれた良いところなので、子どもたちが自然を通して、楽しみながらさまざまなことを学べるような塾を開きたいです」。
その間、私は転職せずに28歳で地元の十津川に戻り、翌年結婚しました。妊娠・出産は当初諦めていた部分もありますが、結婚してみると授かりたいという望みが湧いてきて、奈良医科大学の先生に相談しました。「まだ腎機能が少し残っているから、1人なら出産できるでしょう」という言葉に支えられて、娘を妊娠しました。妊娠8ヶ月で子どもの成長が止まり、私自身も貧血やむくみがひどくなって帝王切開をするといったこともありましたが、なんとか出産できました。子どもの体調もしばらく心配でしたが、今は元気で孫も生まれました。感謝の気持ちでいっぱいです。
出産から約2年後、透析を導入することになりました。自宅から透析施設までの距離が遠いことや子育てもあり、医師がすすめる腹膜透析を選択しました。でも、透析不足によって少しずつ血管の石灰化が進行し、日常生活にも支障が出てきたのです。我慢してやり過ごしていましたが、ついに足が痛くて歩けなくなり、緊急入院することになりました。副甲状腺の手術と左腕にシャントを作る手術でしたが、幸いこういった患者さんを診療した経験がある医師が海外から帰国したばかりで診察してくださり、無事に手術を受けて退院することができました。
こうして血液透析に移行しましたが、やはり通院に時間がかかるのは大きな負担です。そこで在宅透析を10年ほど続けました。離婚で介助者がいなくなったため、最近は通院透析に戻っていますが、いずれ落ち着いたら在宅透析を再開したいと思っています。
現在私は、玉置神社で働いています。熊野三山の奥の院で、紀元前37年に創立されたと伝わる由緒ある神社です。2004(平成16)年には世界遺産にも登録されたんですよ。ここで、お掃除やみなさんの食事づくりなどをしています。実は最近、御朱印を書かせていただけるようになって、私の夢が一つ叶いました。
それから、私は奈良県腎友会の理事と女性部部長を兼任しています。透析の導入当初、腎友会のことは知っていましたが、接点がありませんでした。ふとしたきっかけで役員になり、部長になって約10年になります。いろいろな活動をしていますが、特に人気なのが年に一度行う女性部学習会です。大学の先生や作業療法士の方など、さまざまな方に講演をお願いし、30人ほどが参加してお話を聞きます。おいしいランチもセットにするので、参加希望者が多いんですよ。全国的に、患者会に所属する方は減っていると聞きます。これからもいろんな企画をして、学びを深めながら患者さん同士のつながりも強める活動を続けていきたいと思います。