透析を受けながら活躍する人々
掲載:2018年 vol.31

これまで福田さんが描いた作品に囲まれて。
牛乳パックで作ったミニ屏風や、小物入れの木箱にも描くなど、用いる素材にもアイデアがあふれている。
生かされていること、
命をつなげられたことに、
感謝と喜びの気持ちでいっぱいです。
絵手紙作家
福田 美智子 さん
1958年、三重県志摩市生まれ。9歳の時に腎臓結石により、1年で7回の手術と腹膜灌流を行う。回復して進学し、大学卒業後は愛知県の国立病院に勤務。25歳で結婚。その後ご主人の転勤に伴い、茨城県・神奈川県・岡山県へ移住。2人のお子さんの出産を経て、旅行会社に勤務。45歳の時、風邪をひいたことから腎機能が低下し、血液透析を導入。その翌月から、岡山県腎臓協議会の事務局に勤める。絵手紙を習い、自宅で教室を開いていた経験から、現在は岡山県腎協の4つの支部で教室を開催。近い将来に個展の開催、その少し先の将来には本の出版を目標にされている。
大好きな絵手紙をはじめ、自分にできることで精一杯、
支えてくれた人に恩返しを。
私が体に異変を感じたのは、9歳の時でした。突然尿が出なくなり、背中に激痛が走ったのです。病院で診てもらうと両方の腎臓に無数の石があり「腎臓結石」と診断されました。原因は今もわかりませんが、合計7回の手術を受けました。その後、尿毒症を発症したこともあり、腹膜灌流(現在の腹膜透析)をしながら1年以上入院。この当時、腹膜灌流の治療費は全額自己負担でした。そのため、両親は家を建てるために貯めていたお金をすべて使い果たしたのです。それでも足りず、父は血を吐くまで働いてくれました。母も必死に看病をしてくれ、姉と弟もずっと支えてくれました。ある日病院で、母が鏡に足元の雑草を映して見せてくれた時、思わず涙があふれました。生かされていることへの感謝で胸がいっぱいでした。
この手術で、医師から「20歳まで生きられないかもしれない」と言われましたが、無事に大学へも進学し20歳の時に今の夫と出会いました。思えばこれが「第二の人生」の始まりだったのでしょう。25歳で結婚し、夫の転勤に付き添って茨城県で4年、神奈川県で8年暮らし、今の岡山県に移ってからは20年になります。その間、子どもも2人誕生しました。実は9歳で入院した際、将来出産が難しいことも告げられていたのです。妊娠が分かった時、私の腎臓の状態を考え、出産をあきらめるようにいくつかの病院で言われました。しかし水戸の病院で産科・婦人科・内科のプロジェクトチームを作ってサポートしてくださったおかげで、無事に誕生。そして2人目の子どもを妊娠した時、腎機能は30%に落ちていてさらにリスクは高くなっていましたが、子どもの体重が800gを超えたら出産することを決め、最終的には1000gを優に超えて生まれました。家族が増えたこと、そして「命をつなぐことができた」という喜びは、今も忘れることがありません。
その後体調も安定したので働きたいと思い、旅行会社に勤めました。ところが当時少し忙しかったこともあって風邪をひいてしまい、急に腎機能が低下。2004年に透析を導入することになりました。病院で「シャントを作りましょう」と言われた時は本当にショックで、自宅に帰って泣きました。「透析にならない」と決意して、またそのために食事管理などに気を付けながら育ててくれた母を思うと、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。「仕事をしていなかったら」と言ってくださる人もいます。でも、働いたからこそ経験できたこともあるから、私は後悔していません。
透析を導入した翌月から、ご縁があって岡山県腎臓病協議会の事務局でお仕事をすることになりました。最近は常勤ではありませんが、いろいろとお手伝いしています。また私は以前、絵手紙を習って自宅でも5年ほど教室を開いていたことがあり、現在、岡山県腎協の4つの支部で絵手紙教室を開催しています。ハガキはもちろん、色紙や掛け軸など大きな素材やうちわ・扇子などにも描くので、みなさん楽しんで参加してくださいます。絵手紙は私にとって生きがいと同時に、社会貢献の一つ。これまでめぐり合い支えてくださったみなさんへ、感謝の気持ちをお返ししていきたいと思っています。

福田さんが開催している絵手紙教室の風景。わかりやすく丁寧な指導で、初めての人でも素敵な絵が描けるように。「描いたらすぐにポストに入れてくださいね。その方が、気持ちがストレートに伝わります」と福田さん。